みなさんこんにちは。
本日8月9日は、長崎市に原子爆弾が投下されて77年になる日です。
ということで今回は「原爆と日本」というテーマでお話しさせて頂きたいと思います。
○原子爆弾の投下とその被害
1945年8月6日、世界初の原子爆弾(ウラニウム爆弾)「リトルボーイ」が広島に投下され、その3日後の8月9日にはプルトニウム型の原子爆弾「ファットマン」が長崎に投下されました。
爆心地から1キロ以内の区域では、強力な爆発圧力と熱気によって、住民のほとんどが即死したといわれています。
家屋やその他の建物などは紛砕し、爆心付近は同時に焼失しました。
建物の下敷きになり多くの人が亡くなり、破壊した窓ガラスのかけらが人の体にささったといいます。
そして、同時に強力な火災が発生しました。
1950年に発表された長崎市原爆資料保存委員会の報告によると、死者は7万3884人、重軽傷者7万4909人と推計されています。
なお、このほかにも1927人の行方不明者がおり、いずれも亡くなったと考えられています。
また、原爆の熱風などによって亡くなっただけではなく、放射線によって多くの方が亡くなりました。
原爆が爆発した際の放射線だけでなく、爆発した際に燃え残った物が降った「死の灰」や、放射性物質がほこりとともに雨となった「黒い雨」などによって多くの被害が生じたのです。
大きな被害が生じたのは、人的被害だけではありません。
街は焼け野原となり、建物はほとんど何も残っていませんでした。
当時、この地にはこれから70年の間、草木が生えないだろうと言われていました。
しかし、9月に入ると、かすかに草木が芽を出し始め、その下には、虫たちの姿がありました。
人々は、生きる希望を見出しました。
やがて人々は、壊れた建物の木材などを集めて小屋を建て住み始めました。
翌年になると、市営住宅も建ち始め、町はようやく活気を取り戻していったのです。
○平和を世界へ
被爆を体験した長崎市民は、何より平和への強い願いを持っています。
戦後は「平和は長崎から」を合言葉に、国際文化都市をめざして町づくりがはじまりました。
1951年には平和公園が整備され、併せて園内に1955年には「国際文化会館」(現在の原爆資料館の前身)が建てられるなど、国際文化都市の象徴となる整備が進められました。
世界中の平和を願う人々の寄付金によって、「平和祈念像」が5年の歳月をかけて制作され1955年に平和公園に建てられました。
世界で唯一の被爆国である日本。
戦争経験者が減少していく中で、その悲痛な歴史を二度と繰り返さないために、後世へ絶えず語り継いでいくことが私たちに出来ることなのではないでしょうか。
本日も最後までご覧いただきまして有難うございました。
引き続き、何卒宜しくお願い申し上げます。
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